浄土真宗 北白川 
圓光寺

‐最新情報‐

春の日差しが強くなると同時に大量の花粉が飛散し、ツライ季節に入りました。また、3月は春季彼岸会の季節でもあります。
圓光寺では3月19日(日)午前10時から法要が勤まります。春季彼岸会の講師は、下出祐太郎氏(下出蒔絵所三代目)講題「漆の伝統工芸が支えるご荘厳」

※同志社大学卒、京都産業大学名誉教授
京都迎賓館で水明の間の飾り台「悠久のささやき」等を制作、カシオ計算機の腕時計 製作・監修等


コロナは終息に向かっている感じですが、世界情勢を見ていると不安定でもあり自分の力ではどうにもならない大きい力がうごめいているようにも思います。
物価高で苦しい生活ですが、電気、ガス、水道と途切れなく供給されていることを思うと日本に生まれて幸せなのかもしれません。


 親鸞聖人誕生850年の法要は、3月25日から始まります。

コロナウイルスの影響で仏法聴聞の機会が一時的に減りましたが、圓光寺も再始動します。




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浄土真宗寺院は各派とも拝観料は不要で、開かれたお寺です。一度お参りください。

この2年余りの期間で、お寺の行事も中止や延期になり法要や葬儀の形も少人数になりましたが、仏事を勤めたいという気持ちは、亡き人を仏様として出遇い直す大切な時間と場です。

ご家族だけの葬儀なら圓光寺本堂でも勤められます。住職までご相談ください。
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圓光寺では法要時にマスクを忘れられても予備のマスクを準備していますので遠慮なくお申し出ください。またアルコール消毒液も用意しています。
 

 2020年5月に境内駐車場を広げ、10台程度の駐車が出来ます。




令和3年8月 夏の圓光寺

令和3年10月 空から北白川圓光寺

北白川圓光寺のPVが出来ました。

ごあいさつ

圓光寺 第十七代住職 樋口浩史
圓光寺は、真宗大谷派(浄土真宗)東本願寺に所属する寺院です。
静かで緑に囲まれた環境で、自分を見つめ直す場があるお寺です。
耳をすませば、辺りから野鳥のさえずりが届きます。木々に向かって深呼吸すれば心のざわめきが少しずつ静まり落ち着きます。きっと本当の自分に出遇える機会になるでしょう。何度でもリセットして明日を迎えてください。

沿革

真宗大谷派圓光寺は室町時代の文明3年(1471年)初代住職 教信によって、現在の滋賀県野洲市八夫に建立されました。

その後、慶長6年(桃山時代末) 東西本願寺が分派したころに京都に移り、現在の御幸町松原下ルに建立されましたが、元治元年7月(1864年)幕末の蛤御門の変で焼失し、東西両本願寺の間にあたる東中筋正面下ルに再建されました。

その後、高度成長期の昭和45年(1970年)郊外の静かな住宅地である左京区北白川の地に移転し現在に至ります。

本堂・境内

本堂
本堂 
参詣席は椅子席です。窓からの景色は自然に満ちて、こころ安らぐ場です。冷暖房により快適にお参りいただけます。(写真は正月飾り)
阿弥陀如来像
ご本尊 「阿弥陀如来像」
開基 釋教信以来、時代の流れで御幸町松原下がる、下京区東中筋正面下がるを経て現在の地、左京区北白川に安置されています。
橋
法漸橋(ほうぜんきょう)
本堂と納骨堂を直接つないでいます。仏様の願いが参拝される皆様の心の中に染み渡る事を願っています。斜面に建つ本堂との行き来の負担を軽減するために設置しました。
納骨堂
納骨堂外観 
境内の一番奥に佇んでいます。モミジに囲まれていて、いつも空気が澄んでいます。
静かにお参りしていただけます。
納骨堂
納骨堂内観 
壁面は個別納骨壇
阿弥陀如来像の下部に合葬ができ、永代納骨ができます。過去の宗旨は問いませんので納骨ご希望の方は下記メール又はお電話でお問合せください。境内での儀式は真宗の作法でおこないます。
ペット墓地
ペット墓地「ともに廟」
ご門徒のペット埋葬の依頼が増えてきたので、数年前に合同墓を設置しました。
ご門徒でなくても随時納骨できます。
ペットの写真札付納骨25,000円
      納骨のみ15,000円
       複数体30,000円
     ※火葬したお骨をお持ちください
納骨費には全て法要費も含まれています。
ご連絡は、075-701-7447まで
橋
法名板お焚き上げ
お盆、春秋の彼岸にお供えいたしました法名板は法要終了後にお焚き上げしております。
橋
法漸橋(ほうぜんきょう)
本堂と納骨堂を直接つないでいます。仏様の願いが参拝される皆様の心の中に染み渡る事を願っています。斜面に建つ本堂との行き来の負担を軽減するために設置しました。

1855年清国(現中国) 香港英華書院発行「漢文聖書初版本」発見 

キリスト教サイト クリスチャントゥデイ取材記事より 

1855年に香港で発行された漢文の聖書「代表訳本」が今年6月、京都の寺で見つかった。「世界でもわずかしか現存せず、貴重な1冊」と専門家は注目している。
その聖書が見つかったのは真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の円光寺(同左京区)。同派の学僧、樋口龍温(香山院龍温、1800~85年)が65年に江戸で入手し、キリスト教を研究するために使っていたと見られる。
 龍温の子孫にあたる円光寺の住職・樋口浩史氏が納屋を整理していたところ、古い長持ちの中からこの聖書を発見した。しっかり箱に入り、丁寧に布に包まれ、虫食いなどがまったくない非常に良い保存状態だったという。
旧約・新約の4冊からなり、各分冊の表紙に「咸豊(かんぽう)伍(五)年」(清朝の元号、1855年)、「香港英華書院印刷」と記されていた。日本聖書協会聖書図書館(東京都中央区)の調べにより、この聖書は上海と香港で出版された「代表訳本」と判明。また、64年に起きた蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)により、龍温がその2年前に初めて手に入れた聖書を焼失し、翌年、再度買い求めたものだと、この聖書の入っていた箱の書き付けにあったという。
漢文聖書「代表訳本」の表紙。「咸豊伍(五)年」「香港英華書院印刷」の文字が確認できる。(画像提供:樋口浩史氏)
禁教の時代、中国で出版された聖書は、来日した宣教師が携えていたとされるが、龍温はどのようなルートでこれを入手したのだろうか。中国近代キリスト教史を専門とする東京外国語大学准教授の倉田明子氏(日本同盟基督教団小竹町聖書教会会員)に、今回発見された聖書について話を聞いた。
――「代表訳本」について教えてください。
「代表訳本」というのは、漢文版聖書のバージョンの1つの名前です。この前に完成していた全訳は言葉遣いや文体が未熟で、アヘン戦争(1840~42)後に中国に移り住んだ宣教師たちが共同で翻訳委員会を作って改訂作業を進めました。それで完成したバージョンの1つがこの代表訳本となります。漢文としては完成度が非常に高く、日本の文語訳聖書に近い文体です。
1852〜53年に上海で刊行され、同じものが香港でも印刷されています。その香港で刊行された代表訳本の旧約聖書が出たのが55年。今回、円光寺で発見された聖書の旧約部分はその時のもので、香港で刊行された旧約聖書の初版にあたります。代表訳本自体はそんなに珍しいものではないのですが、55年に香港で出た初版の旧約聖書であること、しかもそれが新約聖書と一緒に綴(と)じられ、革張りできれいに製本されている点では、世界でもたいへん珍しく、残っているのは数点だと思われます。
「代表訳本」の旧約聖書第1章。「神」ではなく「上帝」が使われている。(画像提供:樋口浩史氏)
――今回発見された聖書では「神」を「上帝」と訳していますが・・・。
今回の発見により、刊行直後の代表訳本の聖書が日本に流入していたことが裏付けられましたが、代表訳本は「神」を「上帝」と訳していることから、日本ではあまり普及しなかった聖書だと考えられます。神を「上帝」と訳したのは英国人で、中国の古代信仰にある用語を充てています。一方、米国人は「神」を使っており、米国人宣教師が多かった日本では、米国人が訳した「神」バージョンの聖書が多く使われていました。
ただ、「神」バージョンの漢文聖書が完成し、中国で発行されるのは63年のことです。そのため、日本のプロテスタント伝道が始まった59年からしばらくの間は、代表訳本聖書が日本でも使われていたのだと思いますが、60年代前半の時点で日本に広まっていた数はわずかだったはずです。それにもかかわらず、仏教徒である龍温は2回も聖書を手に入れており、何か執念のようなものを感じます。
――禁教の時代、龍温はこの聖書をどのように手に入れたのでしょうか。
仏教から見てキリスト教は、ある種、警戒する宗教で、そのキリスト教がどういうことをやっているのか知りたい。そのために聖書を買って研究するということやっていたのだろうと思われます。龍温は、当時、大谷派が設置していた「耶蘇防禦掛(やそぼうぎょがかり)」の担当だったこともあり、かなり熱心にキリスト教を研究していたと言われています。
円光寺に残る「耶蘇興廢年表」。日付は慶應元年となっている。(画像提供:樋口浩史氏)
入手経路については、樋口住職が話すには、「東本願寺は幕府とのつながりが非常の強いので、幕府が没収していたものを内々にもらったのではないか」と。確かにあり得ることですが、この聖書は革張りで、とても立派なものです。この聖書が開港後の横浜にいた宣教師宛てに直接送られたものだとすれば、私は、龍温が宣教師のところで買ったか、宣教師のところに来たものを何らかのルートで買いに行った可能性もあるのではないかと考えています。
この聖書の発見について取り上げた「京都新聞」の記事によると、「明治になってからもキリスト教に対する研究は進んでいく」と書いてあるのですが、龍温が研究を始めたのは62年で、この年代を考えると、この龍温という人はかなり早い段階で個人的に何らかの形でキリスト教に対する警戒心を持っていたのかなと思います。
明治元年になると、神仏分離令により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が全国に広がり、仏教が危機を迎えるようになります。その頃、大谷派は、キリスト教研究も目的にして「護法場」を設置し、龍温はその運営の中心を担っています。そこでは僧侶の教育の近代化を目指しており、これが大谷大学の源流となっています。
真宗大谷派の円光寺で発見された漢文聖書「代表訳本」(画像提供:樋口浩史氏)
龍温は聖書を買い求め、原本を読み、しかも聖書だけでなく、かなり多くのキリスト教関連の本を集めていたと言います。そこには、「大谷派を守らなければいけない」というよりも、「耶蘇(やそ)から仏教を防御しなければ」というもっと壮大な確固たる思いがあるように思います。そうでなければ、わざわざ2冊目を求めて京都から江戸に行き、当時禁教と言われたキリスト教の聖書を買い求めた理由が分かりません。
――この聖書の発見によって今後どのようなことが明らかになりますか。
龍温の生涯とこの聖書を照らし合わせて、また聖書だけでなく、実際に龍温がキリスト教批判をいつ書いたかなどを併せて研究していくと、この時代の仏教、特に東本願寺がキリスト教をどう見ていたかが明らかになってきます。日本史、広い意味での宗教史を考えた時に、これまでの龍温研究家とは違う発見もできるのではないでしょうか。
私の専門である中国のキリスト教史から言うと、1860年代以降の代表訳本は、大学図書館等で持っているところはありますが、50年代の代表訳本はありません。香港で刊行されたばかりの代表訳本が日本に入ったということは、日本と中国の宣教師同士のつながりの深さも感じられますし、また、流入ルートが横浜なのか江戸なのかを考える上でも面白いかなと思っています。龍温は江戸で買ったと書いていますが、当時、聖書が一番あったと思われるのは横浜です。それをなぜ江戸で手に入れたのか、聖書やキリスト教知識の広がり、という点からも興味深いところです。
ペリー来航の江戸時代末期、開国の気運が高まる中、耶蘇教(キリスト教)の宣教に危機感を感じた圓光寺の12代住職「樋口龍温」が江戸に出向き手に入れた旧約・新約合冊漢文聖書
東本願寺での最高学職である講師(教学の長)であった龍温が内容の研究のために使用したと思われます。https://www.christiantoday.co.jp/bible/page2.htm

平成28年の本堂建物改装工事に伴い床下の長持から偶然発見された漢文聖書です。皮の部分はほとんど虫に食われていますが、聖書は木箱の中にあったため印刷面の劣化はほとんどなく、ほぼ完全な形で発見されました。版元の香港には現存せず、世界に数点と言われキリスト教史の上でも貴重な資料であります。(京都、産経新聞に掲載)

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聖書の入っていた木箱の裏面

圓光寺12代住職「龍温」が文久2(1862)年に購入し、禁門の変で焼失後の慶応元(1865)年江戸で再び買い求めたことが記されている。

新約全書(中表紙)

清国時代の年号「咸豊(かんぽう)五年」1855年(江戸時代末期)新約全書 香港英華書院印刷と記されている。4代前の住職龍温が慶応元(1865)年江戸で購入した。

創世記第一章

「God」を「神」でなく、中国の古代信仰の神にあたる「上帝」と訳している。

2018.8.31圓光寺にて香港英華書院校長の聖書の確認

3月に来日された時は、4名でした。英華書院発行の初版本発見に感動されていた学校関係者。
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圓光寺にて半年ぶりの再会

2018年11月から12月5日まで香港歴史博物館での展示に向けて160年ぶりに里帰りする聖書を引き取りに校長、理事、通訳の林先生の3名が来日されました。

香港九龍にある香港歴史博物館前

香港歴史博物館
2018.11.2

香港英華書院創設200周年の記念事業として、香港歴史博物館で圓光寺の漢訳聖書、外箱、京都新聞記事が展示されています。

香港英華書院

1800年代は中国人宣教師の養成、キリスト教の布教が中心でしたが、現在は中高一貫校として運営され、優秀な卒業生を輩出ています。博物館での展示は香港植民地化当初からの伝統があるためです。

英華書院校長と教師の林さんとの記念写真

早稲田大学に留学経験のある林さんは日本語が話せるので何事もスムーズでした。校長先生、林先生、理事には大変お世話になり感謝しかありません。

展示会のパンフレット

圓光寺で発見された初版本であることが紹介されています。

香港の夜景

30年振りの香港はすっかり変わっていました。混沌とした雰囲気はなくなり、活気と人と高層ビルで溢れていました。この時は、民主化にむけたデモが始まるとは夢にも思わなかったです。元の香港に戻ってほしいと願うばかりです。

新旧の聖書が圓光寺に!

平成30年12月6日香港から漢訳聖書が創校200年記念式典の里帰りを終え、京都に戻ってきました。新しい聖書には圓光寺所蔵の江戸時代末期の漢文聖書が紹介されています。

香港英華書院

1800年代は中国人宣教師の養成、キリスト教の布教が中心でしたが、現在は中高一貫校として運営され、優秀な卒業生を輩出ています。博物館での展示は香港植民地化当初からの伝統があるためです。

圓光寺 お山の清掃奉仕 VOL2.2022.3・4

竹の伐採
長年の懸案であった山の清掃が門信徒会竹内会長の発案で始まりました。令和4年は3月と4月の2回開催しました。

4月上旬なら焚火も暖かいです。
天気が良く、参加者の方々も慣れておられて作業が捗りました。
参加の皆様と記念撮影
3年前の台風の傷跡がいたるところに残っています。落ちた小枝を下まで降ろしていただけると山の地面がすっきりし見ていても気持ちがいいです。
4月になるとタケノコが収穫できて、お土産付きです。
春はお猿さんもたまにやって来ます。

切り出した竹の撤去がまた大変
1本の竹の下部は、枝葉がなくスッキリしてますが上部は枝があり他の木の枝などに引っ掛かり倒すのが大変です。思った方向に倒れないと後の枝葉の処理に手間取ります。
参加の皆様と記念撮影
3年前の台風の傷跡がいたるところに残っています。落ちた小枝を下まで降ろしていただけると山の地面がすっきりし見ていても気持ちがいいです。
4月になるとタケノコが収穫できて、お土産付きです。
テラの音
テラの音(ね)コンサートの開催は未定です。
写真は2019年11月のコンサート風景です。
深まりつつある秋のテラの音圓光寺は、ピアノとウッドベースのやわらかいサウンドで、しっとりとした秋の夜に低音とピアノの音色が響きました。
スタンダードナンバーやオリジナル曲も満載で参加いただいた方々は楽しんでいただけたようです! チラシ配布等でご協力いただいた、牧野さん、中澤さん、梅村さん、古川さんありがとうございました。

お寺と若手音楽家が手をつなぎ、コンサートを開催しています。
若手音楽家に活動の場を作ること、人前で演奏することを通して実力をつけていただきたい!
また地域の方に音楽を通して、お寺に気軽に立ち寄っていただける場になればと思い活動しています。
コロナ禍で世の中がすっかり変わってしまいました。状況をみて再開いたします。



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アクセス

寺院名   :真宗大谷派 樋口山 圓光寺
所在地   :京都市左京区北白川山田町35-5
電話番号    :075-701-7447
●お車…駐車スペースが7台ございます。

●京都市バス…3号系統、5号系統、204号系統 
 「造形芸術大前」「上終町」「北白川別当町」より徒歩8分
  町内地図、寺の案内板から坂道を250M程度上がります。
  ちょっとしんどいですが足腰の健康に最高です。
●電車…叡山電鉄「茶山駅」より徒歩15分
お気軽にお問い合わせください。
TEL: 075-701-7447
Mail: hh-289@s4.dion.ne.jp